ギョメムラ

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『花束みたいな恋をした』に冷徹なメスを入れる『愛するということ』

 

※『花束みたいな恋をした』の完全なるネタバレを含みます
 

1956年に エーリッヒ・フロムという哲学者によって書かれた『愛するということ』が、2020年に再翻訳を経てまた発売されています。

 

愛するということ

愛するということ

 

 

タイトルで勘違いされそうな本ですが、自己啓発に終止するような恋愛指南本では一切ありません。恋愛だけでなく母性愛や自己愛、神への愛などにもフォーカスが当てられ、*1徹底的な理詰めで「愛する」行為に迫る哲学書です。感覚的な話がほぼないからか愛の話なのに一切恥ずかしさを感じませんでした。文体が堅苦しい割には読みやすかったですが、ナンパ師とかが読んだら後悔すると思います。

良く言えば客観的で、悪く言えば血も涙もない。そんな本を読んで思い起こさずにはいられない映画があります。

 

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今年公開の話題作『花束みたいな恋をした』です。

自分語り誘発映画の金字塔として数多のインターネットユーザーにnoteを始めさせた傑作。ただしこの記事では主観的な意見を極力抑え、本の力を借りてできる限り冷徹に作品を解剖したいと思っています。登場人物を批判する表現がありますが全て「この本が掲げる善ではない」という意味に過ぎません。

 

 

 

映画の冒頭は2020年から始まります。お互い別のパートナーと別の席に座っている麦(男)と絹(女)ですが、イヤホンを例にとって同じ話をしています。

麦「分けちゃダメなんだって、恋愛は」
絹「恋愛は1人に1個ずつ」

 

 実は、『愛するということ』でもこれとほぼ同じ主張がなされています。

 

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。 

愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。

 —『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
https://a.co/c9MozOf

 

絹と麦2人がフロム的な持論を展開した直後、物語は5年前にさかのぼります。

つまり『花束みたいな恋をした』は若い男女が5年間かけて自力で『愛するということ』で記された考えにたどり着く話であると捉えられます。映画の大半を占める回想シーンは(フロムの立場からすれば)盛大な「未成熟な愛」のお手本だと見て取れます。

 

 

『愛するということ』では、世論が愛について抱える間違った思い込み指摘するところから始まります。

その1つが「”愛する”行為自体に能力は不要である」という誤解です。「愛する」行為も絵をうまく描くなどと同様の技術を要する作業であるのに、現代人はその習練を完全にサボっているようです。この誤解のせいで人々は「愛される」か「愛する対象を見つける」ための努力しかしなくなっていると説かれています。

 

映画の序盤、麦と絹も「愛する対象を見つけた」瞬間的な快楽に溺れていたのではないでしょうか。偶然同じ日に終電を逃した2人が偶然同じ芸人の単独ライブに行く予定で、偶然それをすっぽかしていた。確かに珍しいシンクロです。喜ばしい気持ちになるのも無理はないと思います。ただ、その喜びはそれまでの2人がいかに孤独だったかを示すものでしかありません。

 

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さらに展開されるのは映画最大の特徴である固有名詞の応酬。2人は自分たちが面白がっているモノでつながろうとしますが、互いを面白がろうとはしません。実はフロムはこのような現象にも警鐘を鳴らしていました。先進国の中で”平等”を実現しようとする動きが進むと、急速に大衆が没個性化していきます。みんなが同じように学校に通って、同じように就活できる社会。もちろん素晴らしいことですが、人と人との区別がつきにくくなった共同体で「愛すること」の習練を怠るとどうなるでしょうか?答えは映画で示されます。人間の判断要素が「人以外」の部分になるのです。麦と絹が互いを面白がらないのは当然で、互いの愛し方を知らなかったからです。彼らはサブカル知識の優劣で人を判断していましたが、現実では学歴や年収が人間のスコアに直結する場合も多いでしょう。

 

フロムは「愛」の中でも特に「恋愛」が持つ排他性について懐疑的です。例えば恋愛においては「パートナー以外の人間を誰も愛さないこと」が愛の強さの証明になりがちです。しかし、本当の愛はその対象を通して世界の全てや自分を愛する行為であると主張します。*2これはもちろん浮気の容認とか低レベルな話ではなく人類愛的な意味でしょう。押井守を知らない人を見下す、ワンオク好きを冷笑する等の行為を通して互いの特別さを確認しあっていた麦と絹は、愚直に恋愛(笑)を実行していたのです。フロムはこのような態度を「孤立から脱したようで、世界から2人が孤立しただけ」と評しています。駅から徒歩30分の誰も触れない2人だけの国は、2倍になっただけの利己主義によって支配されていたのでした。

 

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2020年の麦がダメなこととした”恋愛を分ける”行為は、フロムが指すところの共棲的結合にあたります。ざっくり言えば他人を自分の一部にしようとする関係を指す言葉です。

ひたすら「共通の趣味」にこだわっていた麦と絹も「2人で1つ」になろうとしていたと言えます。麦が就職を経てパズドラ以外の興味を失おうが、この欲求は「現状維持」の名の下に引き継がれました。

連日の激務で消耗する麦にイベント会社への転職を知らせる絹。「ポップカルチャーが好きだからそれ周辺の会社に移った」。ただそれだけの報告なのに麦は激昂します。

 

仕事は遊びじゃないよ

好きなこと活かせるとか、そういうのは人生ナメてると思っちゃう


こうして散々絹の選択を批判したかと思えば、

じゃあ結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ

 

と斬新なプロポーズをします。

 

フロムは共棲的結合を2種類に分類しています。

・相手を支配しようとする(サディズム
・相手に保護してもらおうとする(マゾヒズム

麦は絹を家に閉じ込めて自らを拡張しようとしたのでした。

 

 

 

本の内容に従えば、映画内の2人は愛する技術を身に着けていなかったがために破綻します。では、具体的に何が足りていればよかったのでしょうか?

 

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。

—『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
https://a.co/5MdvBgi

 

フロムは、愛する行為はギャンブル性があって恐ろしいことだと記しています。だからこそ、信じる力の重要性を謳います。相手を信じるのが怖いからといって、サブカルに頼って偽りの団結を演じるのは間違っている。自分たち以外の人間を見下すのもおかしい。相手を自分の支配下に置こうなどもってのほかなのです。また、相手を信じるには自分も強い信念を持っていなければならないとも書かれています。2人に足りなかったものは、不確かなものに全身を委ねるための信念だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

ここまで映画と本の共通項が多いと、絹も麦もあんなに本好きならこの本読んどきゃよかったのにと思えてきます。

が、そんな単純なものでもないでしょう。

その証拠は『愛するということ』の出版から50年経っても『花束みたいな恋をした』に多くの人が共感してしまっている事実です。進歩ゼロ。もう人間は失敗を通してしか愛を学べないのです。本を読んだりして賢くなった気になっても無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄なのです。

 

長谷川白紙の話をしていたカップルのごとく、これから先もずっと人間は過ちを繰り返していくのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:宗教周りの話は馴染みがなさすぎて正直よくわかりませんでした。

*2:「本当の愛」を説明するときに「愛」って言葉使うなよとは僕も思いましたが、本文の表現に従いました。