ギョメムラ

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『ウィッカーマン』と『ラースと、その彼女』を分かつもの

 

※映画『ウィッカーマン』の完全なるネタバレを含みます

 

2019年に『ミッドサマー』が流行して以降「村ホラー」というジャンルが定着した感覚があります。

文明社会から隔離された場所で発展したコミュニティ独自の文化。それは外部の人間から見れば往々にして理解不能で恐ろしいものなのでしょう。

この恐怖を約50年前からホラー映画の形に昇華していたのが『ウィッカーマン』です。そもそも『ミッドサマー』自体この映画に大きな影響を受けている(というかほぼリメイク)作品だと言われています。

 

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物語の主人公は「行方不明の少女を探してほしい」という依頼を受けた警察官。

 

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捜索のためサマーアイルという島に上陸した主人公ですが、徐々に島民たちの違和感に気づいていきます。真夜中の野外で人の目も気にせずおっぱじめるカップル軍団。へその緒が巻かれた木。「五月祭り」と呼ばれる謎の儀式の存在。調査を続けるうちに、行方不明の少女は祭りの生贄として殺されたのではないかという疑惑が浮かびます。

 

島民たちを追い詰めるため儀式に潜入した主人公。しかし、ここまでのすべてが島民たちの思惑通りでした。

 

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動物の仮面をかぶった島民に見下ろされながら確保される主人公。彼らの目的は主人公を祭りの生贄として捧げることでした。少女が消えたのも外部の人間を島に誘き寄せるためのウソだったのです。

 

島に謎の原始宗教が浸透している点、島民たちが結託して主人公を騙す点、この映画の不気味さは全て「田舎だからこその閉塞感」に由来しています。ひとつの信仰が洗練され続けて生まれた奇怪な風習や、住民たちの異常な統一感は外部の指摘を快く受け入れるような集団には成立しないものでしょう。

 

しかし、これらが生むのは本当に恐怖だけでしょうか?都会から離れた地はとにかく気持ち悪くて居心地悪い場所なのでしょうか?

 

「村ホラー」的な思想に反例を与えるヒューマンドラマとして、映画『ラースと、その彼女』が挙げられます。

 

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ウィッカーマン』とは打って変わって明るいポスターですが、舞台はサマーアイルと同じく都会から離れた田舎町。そこに住む26歳シャイボーイのラースが主人公です。ちなみに演じているのは『ラ・ラ・ランド』でお馴染みライアン・ゴズリング

 

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ある日兄夫婦の元へやってきたラース。「ネットで知り合った女性・ビアンカを紹介したい」という名目でしたが、連れてきたのは……

 

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ラブドールでした。

 

人間関係の構築が苦手なラースがついに行くとこまで行ったとドン引きする兄夫婦。

早速精神科医に相談しますが、医師は彼の妄想には何か原因があるはずだと考えます。兄夫婦に対しとりあえず今はラースに話を合わせるべきだとアドバイスしました。

 

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しかし、実際に「話を合わせる」必要があるのは兄夫婦だけではありません。ラースはビアンカを車椅子に乗せて平気で外出するので、町の人々全員がこの状態を受け入れなければアドバイスの実行にはなりません。

どう考えても無理だろと思えますが、物語は奇跡的な展開を迎えます。

 

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ビアンカを人間としてパーティーに招待したり……

 

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髪を切ったりメイクを施してあげたり……

 

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病院に招待して子供たちに読み聞かせさせたり……

 

町の人たちは総出でラースの妄想に付き合い始めます。なんて優しい人たちでしょう。しかし、こんなハートウォーミングな展開を迎えられたのもまた「田舎だからこその閉塞感」のおかげとは言えないでしょうか?

 

ラースの住む町は敬虔なキリスト教徒で溢れていました。あまり人と会話しないラース自身も礼拝堂に通うのを趣味としており、そこでのみ地域の人々と交流を深めていました。住民の中には人形と共に外出するラースを偶像崇拝者として批判する者もいましたが、結局は「イエスだったらどうするか」という視点で彼の妄想を受け入れました。

都会に住む無宗教者の僕はそもそもツッコむところ偶像崇拝じゃないだろとか何で1回イエスを経由して判断するんだとか思ってしまいますが、とにかくこの閉鎖的な街では独自のロジックでラースの異常性を肯定してしまったのです。

 

・外側から見れば非常識な光景が、そのコミュニティ内では宗教の名の元で了承されている。

・住民総出でウソをつき、1人の男*1を騙している。

ウィッカーマン』では恐怖の対象として描かれた現象が、『ラースと、その彼女』では心温まる物語として変換されています。異なるのは外側からの目線があるかないかだけです。ラースと、その彼女』には町民以外の人間が登場しません(人形はいますが)。一方『ウィッカーマン』はゴリゴリの部外者が島の中に潜入し、彼の視点で映像が紡がれています。だからこそ違和感が強調され不気味さが漂うのです。

ラースと、その彼女』の舞台でも、「何の事情も知らない人がラブドールを人間として扱う町に迷い込んだ」という視点の物語にすれば立派なホラーになるでしょう。『ウィッカーマン』も「島民が団結して1人の警察にドッキリ仕掛けるドキュメント」の視点だったら最後は感動すら覚えてしまうかもしれません。特定の文化を怖いと思うかどうかは、自分の持つ文明的な価値観をどこまで捨ててどこまで郷に従えるかにかかっているのでしょう。

 

文明から隔離された空間に都会のフィルターを通すとどうしても違和感が生じます。それを感じる者の固定観念こそが、村社会をホラーの舞台にするかヒューマンドラマの舞台にするかを決めるのではないでしょうか。*2

 

 

 

*1:両作品は主人公の男が童貞なのも共通点

*2:ちなみに僕は『ラースと、その彼女』を完全にサイコパス映画だと思って視聴したので度肝を抜かれました