ギョメムラ

複数のコンテンツをミックスして感想を書きます。noteもあります https://note.com/8823kame

狼に恋した女とAIに恋した男が暴く、もうひとつの美女と野獣

※映画『エクス・マキナ』の完全なるネタバレを含みます。

 

童話『美女と野獣』のストーリーはあまりにも有名です。性格悪すぎて野獣にされた王子と空想好きなせいで近所から孤立しているベル。なんやかんやあって2人が恋に落ちると色々あって王子が更生し、野獣からイケメンの姿に戻ります。教訓としては「人は外見じゃなくて中身だよ」的な具合でしょう。

 

ただ、半魚人とおばさんが恋に落ちる映画『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー作品賞を受賞したギレルモ・デル・トロ監督はこの童話に異議を唱えています。

 

僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ?

ギレルモ・デル・トロ「テレビの中の怪獣だけが友達だった」 | 文春オンライン

 

 

確かにその通りです。ベルが本当に中身で野獣を好きになったなら、物語内で王子が人間の姿に戻る必要は全くありません。「人間に戻るのがハッピーエンドだと思ってんならまだまだお前らも外見に囚われてるんだな」という皮肉を込めている可能性もありますが、個人的にはおとぎ話がそんなダークな手法を取るとは思えません。

野獣を"わざわざ"王子に戻さなくてはならない理由。自分なりに考えてみましたが、見た目云々とかではなく人と獣が結ばれるのが倫理的にマズイからではないでしょうか。子供たちにケモナーを覚えさせるのはまだ早いのです。

 

そう考えると、ルッキズム批判としては破綻している『美女と野獣』から別のメッセージが浮き上がってきそうです。それは「人間の定義とは何か?」という問いかけです。

 

物語内の野獣は中身が王子様なので、厳密に言えば半人半獣です。それでも世間からは人外認定され、人間と結ばれることを拒否されています。こうなってくると「野獣」と「人間」の境目がどんどんグラデーションになっていきます。単に見た目で判断されていたのなら、野獣はどこを整形したら人間認定してもらえたのでしょうか?そもそも「中身は人間」と「中身は野獣」は何が違うのでしょうか?

 

 『美女と野獣』が投げかけた(と僕が勝手に思っている)永遠に答えが出ない問い。

それは、現代の映画作品にも引き継がれています。

 

 

f:id:gyome:20210328011804j:image

 

『ワイルド わたしの中の獣』では魔法で獣にされた王子様、とかではなくガチのオオカミとOLが恋に落ちます。撮影時にもCGは一切使わずリアルウルフに演技させたというストロングムービーですが、今作では人間と人外(特に動物)を分かつ軸として「理性的か野性的か」が提示されています。主人公はIT企業で働く無感情な女性で、理知的がゆえに欲求を開放できないという悩みを持っています。そんな主人公がオオカミを発見することで1人と1匹の恋愛譚がスタート。映画が進むにつれて主人公がオオカミの野性を手に入れて、異常性を増していきます。

 

f:id:gyome:20210328010350j:image

 

以上の展開からは全ての人間は少し感情を開放するだけで社会からの逸脱者になってしまうという脆さが見て取れます。壁の向こうにオオカミを隠している主人公の部屋は、野性を隠して生きる彼女の心理状態にも似ています。

 

f:id:gyome:20210328012513j:image


なんか真面目に書きましたが、オオカミに恋する人など常識からすればド変態です。しかしこの映画では「人間の定義を極限まで拡大すれば別にオオカミを好きになることだってあるっしょ」と彼女を剛腕で全肯定してみせます。

 

f:id:gyome:20210328012459j:image

 

「我考える、故に我あり」などの名言で知られるデカルトは理性こそが人間特有の特徴であると指摘しました。しかし19世紀以降ダーウィンの進化論などにより、人間にも動物性はあって無意識の感情に支配されていることが明らかになっていきます。我々だってサルなのです。そう考えると、現在うまく社会の一員として生活している常人たちも多少の獣性を持っていることになるでしょう。野性が目覚めた主人公は我々の延長線上の存在にすぎません。

 

 

 

 

人間と動物という分類が曖昧になった現代は、人間を感情的な動物であると認め、感情を持たないロボットと区別する時代です。次は人間がAIに恋する映画『エクス・マキナ』から、「感情」で人間を定義づける行為について考えていきます。

 

f:id:gyome:20210328011917j:image

 

 オオカミに恋した激レアさんと同じくIT関係の仕事をしている主人公。実験と称して社長の邸宅に招待され、監禁されているAIのエヴァと出会います。

主人公とエヴァは接していくうちに恋に落ちたように見えますが、それはエヴァの企みでした。服装やカツラなど「人間のフリ」ができるセットを揃えたエヴァは社長を殺害。主人公を邸宅に閉じ込めたまま人間社会へと脱出します。

 恋愛と言っても主人公の片想いであり、エヴァの企みによって両思いのように“見えていた”という結末。ただ、その過程の中で本当にエヴァに恋愛感情がなかったかどうかは謎のままです。エヴァは監禁から開放されることを第一に優先していたかもしれませんが、それとは別で主人公のことは好きだった可能性もあります。そもそもAIに感情なんて一切ないと考えるならば、開放を求めたのも何もかも人為的な操作だったといえるかもしれません。

たとえ人間同士であっても意識して自覚できるのは自分の感情だけなので、ある対象がどんな感情を持っているか・そもそも感情があるかどうかを確かめる完全な方法など存在しません。そう考えると、AIと人間はどのように区別すればよいのでしょうか。また、エヴァは人間の衣服を手に入れることで肉体的な差をほぼ完璧に克服しています。見た目が人間と殆ど変わらないロボットを我々は人外と呼べるのでしょうか。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「人間」という概念自体ある歴史的瞬間に賢い大人が発明しただけものであり、これが依拠する時代が変われば概念ごと消滅するべきであると主張しました。

 

 人間/非人間の分類はもう古めかしいものになっているのかもしれません。その時に残る分類は自分/自分以外のみとなり、『美女と野獣』の教訓も通用しなくなるのでしょう。

 

この文章を書いている私も、読んでいるあなたも、本当に人間だと言えるのでしょうか?