『メガマインド』に学ぶ『暇と退屈の倫理学』
※映画『メガマインド』の完全なるネタバレを含みます
アンパンマンの公式サイトには作品にまつわるQ&Aのページがあります。
興味深い質問が多々見受けられるのですが、中でも目を引くのが「ばいきんまんはいつも負けるのになぜアンパンマンと戦うのか」という辛辣すぎる質問です。解答欄をクリックすると、
と記されています。
つまり戦うために戦っているのです。ばいきんまんはアンパンマンに毎回やられているように見えて、実際は生かされていたのです。
ここで新たな疑問が浮上します。
もしばいきんまんがアンパンマンに完全な勝利を収めたら、例えば殺害してしまったら、彼の生きがいはどうなるのでしょうか?彼は何をして生きていけばいいのでしょうか?
日本の国民的ヒーローアニメが抱えるこの問題に真正面から立ち向かった作品があります。2010年、『シュレック』等でおなじみのアニメスタジオ・ドリームワークスが制作した映画『メガマインド』です。
この作品の主人公・メガマインドは日本で言うばいきんまん的悪役です。
彼は隣にいるホラーマン的相棒のコブンギョと共に、正義のヒーローとの戦いを繰り広げます。
アンパンマン的存在となるのは街中の人々の人気をかっさらうメトロマン。メガマインドが何度勝負を仕掛けても彼に勝つことはできません。しびれを切らしたメガマインドは個人で開発したとは思えない規模の太陽光線でメトロマンを撃ち倒します。激しい爆発のあと、爆風に乗って飛んできたのは白骨遺体でした。
ついに長年の宿敵を成敗したメガマインド。しかし同時に生きる目的を失ってしまいました。最初は喜びに任せて踊り狂ったりしていた彼も、次第に強い虚無感に苛まれていきます。
なぜ彼は望みを叶えたのに不幸になってしまったのでしょうか?どうすれば不幸から抜け出せるのでしょうか?
この疑問に関し答えを見出すべく著された書籍が『暇と退屈の倫理学』です。
目的が果たされるとやることがなくなります。この客観的な状態が「暇」です。また、暇になった人の多くは「何かしたいのに何をすればいいかわからない」不幸に陥ります。この主観的な感情が「退屈」です。
メガマインドは「暇でありつつ退屈である」存在ですが、書籍の中では暇と退屈は必ずしも直結しないと記されています。
例えば生まれつき相当な財産があり遊んで暮らせるような貴族は、労働の必要がないため常に暇であると言えます。しかし、有史以来このような階級は芸術や学問にいそしみうまく退屈を避けてきました。豊かさを極めた人々は「暇でありながら退屈ではない」生き方を見出しているのです。対して、貧困にあえぐ労働者階級は「労働」という「やること」が常に存在しているので暇にも退屈にもなりません。
ただ、メガマインドと同様今を生きる人々の多くはこんな両極端な階級には存在していません。
1日のうち8時間しか労働できず、週に2日の休日を手に入れ、中途半端な余暇と中途半端な富を獲得した人々。暇を生きる術を知らないまま暇を与えられてしまった大衆こそが、「暇でありつつ退屈である」状況に陥ってしまうのです。
ここで浮かび上がってくるのが、「暇はないのに退屈している」という謎の立ち位置です。ここに属する人々の正体を解明するため、本の中ではハイデガーによって分類された3種類の退屈が示されます。
①何かによって退屈させられること
ここでは「何かなさねばならない目標があるのに、ある原因のせいで達成できないこと」による退屈を指します。例えば仕事中、取引先の到着を待ってイライラしている時間がこの条件に当てはまります。目標のために自己を喪失しているからこそ起きる退屈であり、人間の「狂気」を表していると主張されます。図の位置で言えば「暇でありつつ退屈している」状態です。
②何かに際して退屈すること
ここでは「自分が気晴らしの中にいるのになぜか退屈している状態」のことを指します。例えば休みの日、ソファーに寝転がってスマホをいじっていると、「スマホをいじる」という暇つぶしの最中にいるにも関わらず退屈になる瞬間があります。こういった特に原因のない感覚が2番目の条件に当てはまります。自分の内部から生まれる自立した退屈であり、人間の「正気」を表していると主張されます。そしてこの退屈こそが「暇はないのに退屈している」に位置するといえます。
③なんとなく退屈であること
①②はそれぞれ「目標に向かっている時」「気晴らしをしている時」に感じる退屈でした。ただ、これらの退屈はより根源的な深い退屈を避けるための行動が生んだ副作用に過ぎません。そもそもなぜ人は目標を立て、なぜ人は気晴らしをしようとするのか。その原因が3番目の退屈です。ハイデガー曰く、ここに陥ってしまったら自分なりの「やるべきこと」を「決断」して、何らかの流れに身を投じなければならないようです。
ここで『メガマインド』に話を戻します。
目標を達成して生きる意味を失い、③の状態となったメガマインドが「決断」したこと。それは「新しいヒーローを自分で作る」という至極単純なものでした。
ヒーローヲタクの男をとっ捕まえ、次期ヒーローはお前だと適当な理由で言いくるめます。
男は喜んでヒーローの任務を引き受けますが、実は彼はかなりの問題児。世界を掌握することしか考えておらず、ヒーローの肩書きを盾に女子アナと交際を差し迫ったりします。期待はずれの展開にメガマインドは徐々に苛立ちをつのらせていきます。
『暇と退屈の倫理学』ではハイデガーの論考からさらに批判的に考えを進めます。ハイデガーのメッセージをざっくり言えば「ダラダラしてるやつはやるべきこと見つけてシャキっとせえ」です。しかし、「やるべきことを見つける」とは①の退屈の始まりなのではないでしょうか?
人は一度決断すると、行動がその内容に縛り付けられるようになります。その状態は自己を喪失した「狂気」ではなかったでしょうか?たとえ「毎週土曜はジョギングしよう!」と決断したとしても、それは「やるべきこと=目標」になっているので気晴らしとは言えないはずです。
「ライバルとの戦い」という人生の目的を失ったメガマインドは、新たな対戦相手を作り出そうと決断します。しかしそれが達成できずに退屈に陥ります。資格を取ってみるとか30プペしてみるとか目標を立てることは一見最も簡単に退屈から逃れる手段に思えますが、それが達成されればまた退屈になるので一時的な措置でしかありません。
ここで明らかになるのは、①と③が同じ運動の中の一部分に過ぎないという点、さらに②における退屈の独自性です。
暇を生きる術を知らない彼に今必要なのは、一旦正気を取り戻して②の退屈を手に入れることなのではないでしょうか?
実は『メガマインド』にはこの理想を実現したキャラが登場します。
メトロマンです。
なんと彼は死んだフリをして隠居に入っていたのです。あの時飛んできた白骨遺体はただの骨格模型でした。
俺にパワーはある
だが誰もが持つものがない
”選択肢”だ
俺は人生ずっと町の望みに応えてきた
だが俺の望みは?
ヒーローとして悪と戦う日々の繰り返しに疲弊したメトロマンは「音楽」という真にやりたかったことを見つけ、悠々自適な生活を手に入れていました。
まとめると図のようになりますが、ここで違和感を覚えるかもしれません。
メトロマンは仕事をリタイアして趣味に没頭しているのだから「暇があって退屈しない」に属すとは言えないのでしょうか?
『暇と退屈の倫理学』によれば、それは間違いです。
なぜなら、消費社会を生きる我々は貴族のような豊かさを失ってしまったからです。ここについて、本の中では社会学者・ボードリヤールが提示した「消費」と「浪費」の対比から論じられています。
浪費とは必要を超えてモノを受け取ることを指します。贅沢や豊かな暮らしの絶対条件であり、有史以来人類はずっと浪費を楽しんできました。
とはいえ、浪費は必ずどこかでストップします。あらゆるものを買ってあらゆるものを所有したとしても、どこかで物理的・身体的な限界が訪れるからです。この性質があるおかげで人々は満足を享受することができました。
ずっと当たり前の話をしているようですが、20世紀に入ると人々は「消費」を始めるようになります。消費は対象がモノではなく意味・観念・記号です。
例えばダルゴナコーヒーが流行ったらダルゴナコーヒーを飲み、トゥンカロンがブームになったらトゥンカロンを食いに行く。そういう人は、食事そのものではなく「流行ってる店に行った」という情報を消費しているにすぎません。最新のスマホを買った人は本当に「スマホ」が欲しかったのでしょうか?本当に欲しかったのは「最新」の部分ではないでしょうか?
こうした情報の消費には物理的な限界がないため、一向に満足感が得られません。流行りのものに飛びついて、新しいものに群れをなす大衆のおかげで経済はうるおいますが、その論理を生きる人々全員から”贅沢”が失われてしまったのです。
いや、自分はそんな流行を追っているだけのやつとは違うんだ。流行りの映画のブログを書けばもっとPVが稼げるのにこんなマニアックなアニメ映画の感想を書いてる時点で俺はやりたいことをやってるんだ。そう考える僕のような人間もいるでしょう。
しかし、文化産業がこれでもかと拡大した今、「需要→供給」の流れで楽しみを摂取することはほとんど不可能になっています。自らの内側から「楽しい」が湧き出すことはなく、知らない間に企業や広告から「これが『楽しい』ということなのだ」と"選択肢"を押しつけられる「供給→需要」のシステムが構築されてしまったのです。思えば僕が『メガマインド』を視聴したきっかけのNetflixのレコメンドでした。
「本当にやりたいこと」が揺らぐ現代で人は浪費家になることが許されず、消費者であることを強制されます。よって我々もメトロマンも退屈からは逃げられないのです。
こうなってくると、やはり気晴らしと退屈が混ざりあった②の退屈が最も人間らしい状態に思えてきます。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間にとって、その辛さとうまく向き合うためになんとかして贅沢・浪費に近づこうとするのが健全な姿なのです。
なんのために うまれて
なにをして いきるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!
上記は「アンパンマンのマーチ」の歌詞ですが、メガマインドやかつてのメトロマンは退屈に対して「いやだ!」と思いすぎていたのではないでしょうか。この焦りから人はやりたくもない仕事に手を出し、楽しくもない趣味を楽しんでるフリして、結果余計に生きる目的を見失う悪循環に陥ってしまうのです。
仕事に生きがいを求めすぎて奴隷になったら身も蓋もありません。気晴らしを「決断」によって目標化してしまったら本末転倒です。自分が自分のもとにいる感覚を維持しつつ退屈と向き合うことがこれからの正義なのではないでしょうか。