ギョメムラ

複数のコンテンツをミックスして感想を書きます。noteもあります https://note.com/8823kame

『メガマインド』に学ぶ『暇と退屈の倫理学』

※映画『メガマインド』の完全なるネタバレを含みます

 

アンパンマンの公式サイトには作品にまつわるQ&Aのページがあります。


www.anpanman.jp

興味深い質問が多々見受けられるのですが、中でも目を引くのが「ばいきんまんはいつも負けるのになぜアンパンマンと戦うのか」という辛辣すぎる質問です。解答欄をクリックすると、

ばいきんまんは、アンパンマンをやっつけることが生きがいなので、何度やられても、またアンパンマンと戦おうとします。

と記されています。
つまり戦うために戦っているのです。ばいきんまんアンパンマンに毎回やられているように見えて、実際は生かされていたのです。

 

ここで新たな疑問が浮上します。

もしばいきんまんアンパンマンに完全な勝利を収めたら、例えば殺害してしまったら、彼の生きがいはどうなるのでしょうか?彼は何をして生きていけばいいのでしょうか?

 

日本の国民的ヒーローアニメが抱えるこの問題に真正面から立ち向かった作品があります。2010年、『シュレック』等でおなじみのアニメスタジオ・ドリームワークスが制作した映画『メガマインド』です。

 

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この作品の主人公・メガマインドは日本で言うばいきんまん的悪役です。

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彼は隣にいるホラーマン的相棒のコブンギョと共に、正義のヒーローとの戦いを繰り広げます。

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アンパンマン的存在となるのは街中の人々の人気をかっさらうメトロマン。メガマインドが何度勝負を仕掛けても彼に勝つことはできません。しびれを切らしたメガマインドは個人で開発したとは思えない規模の太陽光線でメトロマンを撃ち倒します。激しい爆発のあと、爆風に乗って飛んできたのは白骨遺体でした。

ついに長年の宿敵を成敗したメガマインド。しかし同時に生きる目的を失ってしまいました。最初は喜びに任せて踊り狂ったりしていた彼も、次第に強い虚無感に苛まれていきます。

なぜ彼は望みを叶えたのに不幸になってしまったのでしょうか?どうすれば不幸から抜け出せるのでしょうか?

この疑問に関し答えを見出すべく著された書籍が『暇と退屈の倫理学』です。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

 

 目的が果たされるとやることがなくなります。この客観的な状態が「暇」です。また、暇になった人の多くは「何かしたいのに何をすればいいかわからない」不幸に陥ります。この主観的な感情が「退屈」です。

メガマインドは「暇でありつつ退屈である」存在ですが、書籍の中では暇と退屈は必ずしも直結しないと記されています。

例えば生まれつき相当な財産があり遊んで暮らせるような貴族は、労働の必要がないため常に暇であると言えます。しかし、有史以来このような階級は芸術や学問にいそしみうまく退屈を避けてきました。豊かさを極めた人々は「暇でありながら退屈ではない」生き方を見出しているのです。対して、貧困にあえぐ労働者階級は「労働」という「やること」が常に存在しているので暇にも退屈にもなりません。

 

ただ、メガマインドと同様今を生きる人々の多くはこんな両極端な階級には存在していません。

1日のうち8時間しか労働できず、週に2日の休日を手に入れ、中途半端な余暇と中途半端な富を獲得した人々。暇を生きる術を知らないまま暇を与えられてしまった大衆こそが、「暇でありつつ退屈である」状況に陥ってしまうのです。

 

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ここで浮かび上がってくるのが、「暇はないのに退屈している」という謎の立ち位置です。ここに属する人々の正体を解明するため、本の中ではハイデガーによって分類された3種類の退屈が示されます。

①何かによって退屈させられること

ここでは「何かなさねばならない目標があるのに、ある原因のせいで達成できないこと」による退屈を指します。例えば仕事中、取引先の到着を待ってイライラしている時間がこの条件に当てはまります。目標のために自己を喪失しているからこそ起きる退屈であり、人間の「狂気」を表していると主張されます。図の位置で言えば「暇でありつつ退屈している」状態です。

②何かに際して退屈すること

ここでは「自分が気晴らしの中にいるのになぜか退屈している状態」のことを指します。例えば休みの日、ソファーに寝転がってスマホをいじっていると、「スマホをいじる」という暇つぶしの最中にいるにも関わらず退屈になる瞬間があります。こういった特に原因のない感覚が2番目の条件に当てはまります。自分の内部から生まれる自立した退屈であり、人間の「正気」を表していると主張されます。そしてこの退屈こそが「暇はないのに退屈している」に位置するといえます。

 ③なんとなく退屈であること

 ①②はそれぞれ「目標に向かっている時」「気晴らしをしている時」に感じる退屈でした。ただ、これらの退屈はより根源的な深い退屈を避けるための行動が生んだ副作用に過ぎません。そもそもなぜ人は目標を立て、なぜ人は気晴らしをしようとするのか。その原因が3番目の退屈です。ハイデガー曰く、ここに陥ってしまったら自分なりの「やるべきこと」を「決断」して、何らかの流れに身を投じなければならないようです。

 

 

ここで『メガマインド』に話を戻します。

目標を達成して生きる意味を失い、③の状態となったメガマインドが「決断」したこと。それは「新しいヒーローを自分で作る」という至極単純なものでした。

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ヒーローヲタクの男をとっ捕まえ、次期ヒーローはお前だと適当な理由で言いくるめます。

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 男は喜んでヒーローの任務を引き受けますが、実は彼はかなりの問題児。世界を掌握することしか考えておらず、ヒーローの肩書きを盾に女子アナと交際を差し迫ったりします。期待はずれの展開にメガマインドは徐々に苛立ちをつのらせていきます。

 

『暇と退屈の倫理学』ではハイデガーの論考からさらに批判的に考えを進めます。ハイデガーのメッセージをざっくり言えば「ダラダラしてるやつはやるべきこと見つけてシャキっとせえ」です。しかし、「やるべきことを見つける」とは①の退屈の始まりなのではないでしょうか?

人は一度決断すると、行動がその内容に縛り付けられるようになります。その状態は自己を喪失した「狂気」ではなかったでしょうか?たとえ「毎週土曜はジョギングしよう!」と決断したとしても、それは「やるべきこと=目標」になっているので気晴らしとは言えないはずです。

「ライバルとの戦い」という人生の目的を失ったメガマインドは、新たな対戦相手を作り出そうと決断します。しかしそれが達成できずに退屈に陥ります。資格を取ってみるとか30プペしてみるとか目標を立てることは一見最も簡単に退屈から逃れる手段に思えますが、それが達成されればまた退屈になるので一時的な措置でしかありません。

ここで明らかになるのは、①と③が同じ運動の中の一部分に過ぎないという点、さらに②における退屈の独自性です。

暇を生きる術を知らない彼に今必要なのは、一旦正気を取り戻して②の退屈を手に入れることなのではないでしょうか?

 実は『メガマインド』にはこの理想を実現したキャラが登場します。

 

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 メトロマンです。

なんと彼は死んだフリをして隠居に入っていたのです。あの時飛んできた白骨遺体はただの骨格模型でした。

俺にパワーはある
だが誰もが持つものがない
”選択肢”だ
俺は人生ずっと町の望みに応えてきた
だが俺の望みは?

 ヒーローとして悪と戦う日々の繰り返しに疲弊したメトロマンは「音楽」という真にやりたかったことを見つけ、悠々自適な生活を手に入れていました。

 

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まとめると図のようになりますが、ここで違和感を覚えるかもしれません。

メトロマンは仕事をリタイアして趣味に没頭しているのだから「暇があって退屈しない」に属すとは言えないのでしょうか?

『暇と退屈の倫理学』によれば、それは間違いです。

なぜなら、消費社会を生きる我々は貴族のような豊かさを失ってしまったからです。ここについて、本の中では社会学者・ボードリヤールが提示した「消費」と「浪費」の対比から論じられています。

浪費とは必要を超えてモノを受け取ることを指します。贅沢や豊かな暮らしの絶対条件であり、有史以来人類はずっと浪費を楽しんできました。

とはいえ、浪費は必ずどこかでストップします。あらゆるものを買ってあらゆるものを所有したとしても、どこかで物理的・身体的な限界が訪れるからです。この性質があるおかげで人々は満足を享受することができました。

ずっと当たり前の話をしているようですが、20世紀に入ると人々は「消費」を始めるようになります。消費は対象がモノではなく意味・観念・記号です。

例えばダルゴナコーヒーが流行ったらダルゴナコーヒーを飲み、トゥンカロンがブームになったらトゥンカロンを食いに行く。そういう人は、食事そのものではなく「流行ってる店に行った」という情報を消費しているにすぎません。最新のスマホを買った人は本当に「スマホ」が欲しかったのでしょうか?本当に欲しかったのは「最新」の部分ではないでしょうか?

こうした情報の消費には物理的な限界がないため、一向に満足感が得られません。流行りのものに飛びついて、新しいものに群れをなす大衆のおかげで経済はうるおいますが、その論理を生きる人々全員から”贅沢”が失われてしまったのです。

いや、自分はそんな流行を追っているだけのやつとは違うんだ。流行りの映画のブログを書けばもっとPVが稼げるのにこんなマニアックなアニメ映画の感想を書いてる時点で俺はやりたいことをやってるんだ。そう考える僕のような人間もいるでしょう。

しかし、文化産業がこれでもかと拡大した今、「需要→供給」の流れで楽しみを摂取することはほとんど不可能になっています。自らの内側から「楽しい」が湧き出すことはなく、知らない間に企業や広告から「これが『楽しい』ということなのだ」と"選択肢"を押しつけられる「供給→需要」のシステムが構築されてしまったのです。思えば僕が『メガマインド』を視聴したきっかけのNetflixのレコメンドでした。

「本当にやりたいこと」が揺らぐ現代で人は浪費家になることが許されず、消費者であることを強制されます。よって我々もメトロマンも退屈からは逃げられないのです。

こうなってくると、やはり気晴らしと退屈が混ざりあった②の退屈が最も人間らしい状態に思えてきます。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間にとって、その辛さとうまく向き合うためになんとかして贅沢・浪費に近づこうとするのが健全な姿なのです。

 

なんのために うまれて
なにをして いきるのか
こたえられないなんて
そんなのは いやだ!

 

上記は「アンパンマンのマーチ」の歌詞ですが、メガマインドやかつてのメトロマンは退屈に対して「いやだ!」と思いすぎていたのではないでしょうか。この焦りから人はやりたくもない仕事に手を出し、楽しくもない趣味を楽しんでるフリして、結果余計に生きる目的を見失う悪循環に陥ってしまうのです。

仕事に生きがいを求めすぎて奴隷になったら身も蓋もありません。気晴らしを「決断」によって目標化してしまったら本末転倒です。自分が自分のもとにいる感覚を維持しつつ退屈と向き合うことがこれからの正義なのではないでしょうか。

 

『予想どおりに不合理』な映画3選

 

誰かに映画を勧めるのは簡単ではありません。人によって価値観は違い、自分が面白いと思ったからって他人もそう感じるとは限らないからです。社会で大絶賛されている作品でも自分にはハマらなかったなんてアクシデントは往々にして起こり得ます。

 

ただ、いくら人間が多様性のある生き物だとしても共通点が全くないわけではありません。人類普遍の「あるある」をしっかり押さえた映画を紹介すれば大事故を起こすことはないでしょう。個性を出したいからって変な映画を勧めるのではなく、誰が見ても少しは共感できるであろう作品をチョイスできるのが大人というものです。

 

では、その「あるある」とは何なのか?

この疑問を行動経済学の観点から読み解いている書籍が『不合理だからうまくいく』です。

 

 

著者のダン・アリエリー曰く、経済学は「人はだれもがみな自分の利益のためになる決定しかしない」という前提のもと構築されています。しかし人間がそんなに合理的に動ける生き物ならば、なぜ見もしないサブスクの契約を更新し続けてしまうのでしょうか?なぜいくらお金があっても自分を不幸だと感じてしまうのでしょうか? 

 

このように、経済理論だけでは掬いきれない人間の不合理性に注目したのが行動経済学です。理論より先に徹底して人間の”行動”をデータ化し、不合理なのにパターン化している習性をあぶり出す。それを組織運営やマーケティングに応用していく。つまり、人間社会の「あるある」を本気で追い求める学問なのです。

 

話を映画に戻して、ここからは書籍内で提示された人間の不合理性をとことん具現化している作品を3つ紹介します。もちろん共感だけが面白さの全てだとは思いませんが、少なくとも「⭐︎1 登場人物の言動が全く理解できない」といったレビューを書かれることはないはずです。

 

 

①アイ・イン・ザ・スカイ

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この作品は「安全地帯からただ指示を送るだけの人たち」に焦点を当てた戦争映画です。

ドローンから送られる情報を頼りにテロリストの爆撃を狙う司令官一同。これが成功しなければ推定80人の命が奪われる算段です。彼らはアジトの場所を突き止めると迷わずミサイルの発射準備を開始。しかし、その殺傷圏内でのん気にパンを売りはじめる少女が現れます。

ここでミサイルを撃たなければほぼ確実に自爆テロが起き多くの命が失われます。一方ミサイルを撃てばほぼ確実に目の前で1人の少女の命が奪われます。

ロッコ問題みたいな話ですが、ここで重要なのは命を奪う対象が目に見えているかどうかです。

 

1人の死は悲劇だが、1万人の死は統計学上の数字に過ぎない

顔のない集団を前にしても私達は行動を起こさない。一人ひとりが相手だからこそ私達は行動を起こす。

 

似た内容の発言ですが、前者はスターリン、後者はマザーテレサの言葉です。

ペンシルベニア大学で行われた実験では、被験者集団の半分には貧困地帯の状況を表すデータが、もう半分にはその地域に住む1人の少女の写真が渡されました。「この地域にいくら寄付したいか」訪ねた時、顔写真を見せられた集団のほうが2倍高い値段を提示したようです。

 

合理的に考えれば1人の少女の命より80人の市民の命を救った方が死傷者数は抑えられるでしょう。ただ
・犠牲者との距離感が近い
・予測される惨状が鮮明にイメージできる
・自分の行動によって誰かが助けられる実感がある
ときに限り人間の理性は崩壊してしまうのです。

 

日本でもたった1人の子供の命を救うために何億もの寄付が集まったりします。一見違和感のある光景ですが、行動経済学的な視点で考えれば予想どおりの展開なのです。逆に具体的な被害者がイメージしづらい環境問題などに関して、人間は異常なほど危機意識を持てないでいます。

 

例に漏れず『アイ・イン・ザ・スカイ』の司令官たちは少女と市民どっちを救うかを迷いまくり、汗かきまくり、揉めまくり、決定権をたらい回しまくります。なんとそれだけで約100分間の上映時間がほぼ終わってしまいます。しかし緊迫感ある演出のおかげで決して単調にはなっておらず、人間の感情の難しさを感じていたらあっという間に時間が経つような映画に仕上がっていると感じました。

 

②悪魔を見た 

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 「たらちねの」と言われれば「母」であるように、「復讐は」と言われれば「何も産まない」が続くでしょう。生産性がないと分かっていてもついやってしまう復讐。まさに人間の不合理性が現れている行為です。

 

バイオレンス映画大国の韓国が生んだ『悪魔を見た』では、復讐に取り憑かれた主人公が理性を失い悪魔化していく過程が丁寧に描かれています。

婚約者をバラバラ殺人によって亡くした警察官。上司に休暇を申し付け自力で犯人の居場所を暴き出します。案の定ボコボコにタコ殴りして犯人の殺害を試みる……かと思いきや、主人公は相手が死ぬ一歩手前で攻撃を止めてしまいます。ここで死なれたらもう復讐できないからですサイコパステストの答えみたいですね。殺すと見せかけてギリギリで生かす、そんな緊張と解放のスパイラルが延々と続いていきます。

 

スイスの研究チームは「信頼ゲーム」の実験を通して人間の報復欲を証明しました。ルールがややこしすぎるのですが、要するに、AとBの2人が信頼し合えば両者とも得ができるけどBが裏切れば利益を独り占めできる。さあBはどっちを選ぶ!?というゲームです。詳しく知りたい人はこれ見てください。

 

www.teamspirit.co.jp

 

ここで問題になるのは「裏切り」が発生したときのAの反応です。研究チームはゲームに「Aは裏切られた場合、1ドル払うごとにBの2ドルを失わせられる(奪えるわけではない)」ルールを追加しました。身銭を切れば相手を痛い目に遭わせられるのです。まさに悪魔のようなルールですが、報復の機会を与えられた被験者の多くが厳しく相手を罰していました。しかもその瞬間に脳の喜びを感じる部位が活発に反応していたのです。

 

『悪魔を見た』によって主人公の壮絶な復讐劇を追体験した時、確かに自分も快楽に似た感情を抱きました。ただそれは瞬間的なもので、映画が終われば恐ろしいほどの虚無感が襲いかかってきます。厳密に言えば、復讐は一瞬の喜びと長期間後を引くむなしさを生み出すのです。

感情のジェットコースターとクリエイティブなグロが楽しめる『悪魔を見た』。18禁ですがかなり見ごたえのある作品だと思います。

 

③ターミナル

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ジョン・F・ケネディ国際空港の入国審査にやってきた主人公。しかし、母国でクーデターが起きたためパスポートが無効になっていたと発覚します。米国にも入れず母国にも帰れなくなった主人公。仕方なく空港内での生活を始めます。

弘中アナが手作りボードで解説してそうな話ですが、この映画は実際にフランスの空港で18年間生活したイラン人の日記を元に制作されました。彼は空港生活で1度は精神を病んだものの、徐々に慣れて空港内でアルバイトを行うようになります。

この話から読み取れるのは人間の順応する力です。

 

半身不随になってから1年が経った人、宝くじ当選から1年が経った人、目立った不幸も幸福も経験していない普通の人の3グループに生活全般に対する満足度を聞いた結果、答えに大きな差は見られなかったという研究があります。もちろん半身不随になりたての人は悲しみを感じていたでしょうし、宝くじに当たりたての人は喜びを感じていたでしょう。しかし、1年もすれば感情は平坦化していくのです。

 

わたしたちは未来を想像するのは得意でも、その未来に自分がどのように順応するかは、予想できないのだ。

『不合理だからうまくいく』P229

人はいいことが起きても結局そんな幸せになりません。
人は悪いことが起きても結局そんな不幸になりません。

ただ、幸せに関してはときおり中断を挟むことでその順応を遅らせられるという研究結果も出ています。欲しいものは一気に買うより少しずつ買った方が高い満足度を得られるのです。幸せは途切れながらの方が続くのです。

現実がどうだったかはわかりませんが、映画『ターミナル』の主人公はハプニングだらけの日常の中でまれに味方になってくれるような人間を見つけていました。空港での生活という地獄には順応しつつ、「人との出会い」という喜びにはありがたさを感じ続ける日々を送れていたのです。

もちろん主人公はあるきっかけで空港からの脱出に成功しますが、その時観客も登場人物も少し寂しさを覚えます。主人公に関わる多くの人間がこの異常な状況に順応していたのです。

前に挙げた2作とは違い全てがハートフルにまとめられた作品なので、是非この心地よい順応を感じてみてください。

 

 

 

 

 

 

最後に、『不合理だからうまくいく』の前作にあたる『予想どおりに不合理』からもうひとつ人間の興味深い特性を紹介します。

 ある大学のコーヒーショップで、コーヒーに入れる香辛料の容器を高級感のあるデザインに変えただけで満足度が上がったという研究がありました。つまり、前もって「これは高級だ」と信じて飲んだコーヒーはそのまま高級な味がするのです。

この現象を映画に応用するなら、心から「面白い」と信じて見た映画はそのまま面白く感じられると言えます、。コンテンツを勧めるにあたって肝心なのは作品のチョイスではなく、とにかく相手に「あの作品は面白い」と刷り込むことなのです。

 

そう考えると、僕がいちいち他人の価値観とか行動経済学とか気にしていた時間は無駄だったということになってしまいます。こんな記事を読んでしまったあなたの時間も無駄です。もっと言えばそもそも映画なんて時間の無駄です。しかし、無駄なことをしてこそ人間なので仕方ないですね。これからも不合理に生きていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ウィッカーマン』と『ラースと、その彼女』を分かつもの

 

※映画『ウィッカーマン』の完全なるネタバレを含みます

 

2019年に『ミッドサマー』が流行して以降「村ホラー」というジャンルが定着した感覚があります。

文明社会から隔離された場所で発展したコミュニティ独自の文化。それは外部の人間から見れば往々にして理解不能で恐ろしいものなのでしょう。

この恐怖を約50年前からホラー映画の形に昇華していたのが『ウィッカーマン』です。そもそも『ミッドサマー』自体この映画に大きな影響を受けている(というかほぼリメイク)作品だと言われています。

 

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物語の主人公は「行方不明の少女を探してほしい」という依頼を受けた警察官。

 

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捜索のためサマーアイルという島に上陸した主人公ですが、徐々に島民たちの違和感に気づいていきます。真夜中の野外で人の目も気にせずおっぱじめるカップル軍団。へその緒が巻かれた木。「五月祭り」と呼ばれる謎の儀式の存在。調査を続けるうちに、行方不明の少女は祭りの生贄として殺されたのではないかという疑惑が浮かびます。

 

島民たちを追い詰めるため儀式に潜入した主人公。しかし、ここまでのすべてが島民たちの思惑通りでした。

 

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動物の仮面をかぶった島民に見下ろされながら確保される主人公。彼らの目的は主人公を祭りの生贄として捧げることでした。少女が消えたのも外部の人間を島に誘き寄せるためのウソだったのです。

 

島に謎の原始宗教が浸透している点、島民たちが結託して主人公を騙す点、この映画の不気味さは全て「田舎だからこその閉塞感」に由来しています。ひとつの信仰が洗練され続けて生まれた奇怪な風習や、住民たちの異常な統一感は外部の指摘を快く受け入れるような集団には成立しないものでしょう。

 

しかし、これらが生むのは本当に恐怖だけでしょうか?都会から離れた地はとにかく気持ち悪くて居心地悪い場所なのでしょうか?

 

「村ホラー」的な思想に反例を与えるヒューマンドラマとして、映画『ラースと、その彼女』が挙げられます。

 

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ウィッカーマン』とは打って変わって明るいポスターですが、舞台はサマーアイルと同じく都会から離れた田舎町。そこに住む26歳シャイボーイのラースが主人公です。ちなみに演じているのは『ラ・ラ・ランド』でお馴染みライアン・ゴズリング

 

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ある日兄夫婦の元へやってきたラース。「ネットで知り合った女性・ビアンカを紹介したい」という名目でしたが、連れてきたのは……

 

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ラブドールでした。

 

人間関係の構築が苦手なラースがついに行くとこまで行ったとドン引きする兄夫婦。

早速精神科医に相談しますが、医師は彼の妄想には何か原因があるはずだと考えます。兄夫婦に対しとりあえず今はラースに話を合わせるべきだとアドバイスしました。

 

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しかし、実際に「話を合わせる」必要があるのは兄夫婦だけではありません。ラースはビアンカを車椅子に乗せて平気で外出するので、町の人々全員がこの状態を受け入れなければアドバイスの実行にはなりません。

どう考えても無理だろと思えますが、物語は奇跡的な展開を迎えます。

 

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ビアンカを人間としてパーティーに招待したり……

 

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髪を切ったりメイクを施してあげたり……

 

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病院に招待して子供たちに読み聞かせさせたり……

 

町の人たちは総出でラースの妄想に付き合い始めます。なんて優しい人たちでしょう。しかし、こんなハートウォーミングな展開を迎えられたのもまた「田舎だからこその閉塞感」のおかげとは言えないでしょうか?

 

ラースの住む町は敬虔なキリスト教徒で溢れていました。あまり人と会話しないラース自身も礼拝堂に通うのを趣味としており、そこでのみ地域の人々と交流を深めていました。住民の中には人形と共に外出するラースを偶像崇拝者として批判する者もいましたが、結局は「イエスだったらどうするか」という視点で彼の妄想を受け入れました。

都会に住む無宗教者の僕はそもそもツッコむところ偶像崇拝じゃないだろとか何で1回イエスを経由して判断するんだとか思ってしまいますが、とにかくこの閉鎖的な街では独自のロジックでラースの異常性を肯定してしまったのです。

 

・外側から見れば非常識な光景が、そのコミュニティ内では宗教の名の元で了承されている。

・住民総出でウソをつき、1人の男*1を騙している。

ウィッカーマン』では恐怖の対象として描かれた現象が、『ラースと、その彼女』では心温まる物語として変換されています。異なるのは外側からの目線があるかないかだけです。ラースと、その彼女』には町民以外の人間が登場しません(人形はいますが)。一方『ウィッカーマン』はゴリゴリの部外者が島の中に潜入し、彼の視点で映像が紡がれています。だからこそ違和感が強調され不気味さが漂うのです。

ラースと、その彼女』の舞台でも、「何の事情も知らない人がラブドールを人間として扱う町に迷い込んだ」という視点の物語にすれば立派なホラーになるでしょう。『ウィッカーマン』も「島民が団結して1人の警察にドッキリ仕掛けるドキュメント」の視点だったら最後は感動すら覚えてしまうかもしれません。特定の文化を怖いと思うかどうかは、自分の持つ文明的な価値観をどこまで捨ててどこまで郷に従えるかにかかっているのでしょう。

 

文明から隔離された空間に都会のフィルターを通すとどうしても違和感が生じます。それを感じる者の固定観念こそが、村社会をホラーの舞台にするかヒューマンドラマの舞台にするかを決めるのではないでしょうか。*2

 

 

 

*1:両作品は主人公の男が童貞なのも共通点

*2:ちなみに僕は『ラースと、その彼女』を完全にサイコパス映画だと思って視聴したので度肝を抜かれました

狼に恋した女とAIに恋した男が暴く、もうひとつの美女と野獣

※映画『エクス・マキナ』の完全なるネタバレを含みます。

 

童話『美女と野獣』のストーリーはあまりにも有名です。性格悪すぎて野獣にされた王子と空想好きなせいで近所から孤立しているベル。なんやかんやあって2人が恋に落ちると色々あって王子が更生し、野獣からイケメンの姿に戻ります。教訓としては「人は外見じゃなくて中身だよ」的な具合でしょう。

 

ただ、半魚人とおばさんが恋に落ちる映画『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー作品賞を受賞したギレルモ・デル・トロ監督はこの童話に異議を唱えています。

 

僕は『美女と野獣』が好きじゃない。『人は外見ではない』というテーマなのに、なぜヒロインは美しい処女で、野獣はハンサムな王子になるんだ?

ギレルモ・デル・トロ「テレビの中の怪獣だけが友達だった」 | 文春オンライン

 

 

確かにその通りです。ベルが本当に中身で野獣を好きになったなら、物語内で王子が人間の姿に戻る必要は全くありません。「人間に戻るのがハッピーエンドだと思ってんならまだまだお前らも外見に囚われてるんだな」という皮肉を込めている可能性もありますが、個人的にはおとぎ話がそんなダークな手法を取るとは思えません。

野獣を"わざわざ"王子に戻さなくてはならない理由。自分なりに考えてみましたが、見た目云々とかではなく人と獣が結ばれるのが倫理的にマズイからではないでしょうか。子供たちにケモナーを覚えさせるのはまだ早いのです。

 

そう考えると、ルッキズム批判としては破綻している『美女と野獣』から別のメッセージが浮き上がってきそうです。それは「人間の定義とは何か?」という問いかけです。

 

物語内の野獣は中身が王子様なので、厳密に言えば半人半獣です。それでも世間からは人外認定され、人間と結ばれることを拒否されています。こうなってくると「野獣」と「人間」の境目がどんどんグラデーションになっていきます。単に見た目で判断されていたのなら、野獣はどこを整形したら人間認定してもらえたのでしょうか?そもそも「中身は人間」と「中身は野獣」は何が違うのでしょうか?

 

 『美女と野獣』が投げかけた(と僕が勝手に思っている)永遠に答えが出ない問い。

それは、現代の映画作品にも引き継がれています。

 

 

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『ワイルド わたしの中の獣』では魔法で獣にされた王子様、とかではなくガチのオオカミとOLが恋に落ちます。撮影時にもCGは一切使わずリアルウルフに演技させたというストロングムービーですが、今作では人間と人外(特に動物)を分かつ軸として「理性的か野性的か」が提示されています。主人公はIT企業で働く無感情な女性で、理知的がゆえに欲求を開放できないという悩みを持っています。そんな主人公がオオカミを発見することで1人と1匹の恋愛譚がスタート。映画が進むにつれて主人公がオオカミの野性を手に入れて、異常性を増していきます。

 

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以上の展開からは全ての人間は少し感情を開放するだけで社会からの逸脱者になってしまうという脆さが見て取れます。壁の向こうにオオカミを隠している主人公の部屋は、野性を隠して生きる彼女の心理状態にも似ています。

 

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なんか真面目に書きましたが、オオカミに恋する人など常識からすればド変態です。しかしこの映画では「人間の定義を極限まで拡大すれば別にオオカミを好きになることだってあるっしょ」と彼女を剛腕で全肯定してみせます。

 

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「我考える、故に我あり」などの名言で知られるデカルトは理性こそが人間特有の特徴であると指摘しました。しかし19世紀以降ダーウィンの進化論などにより、人間にも動物性はあって無意識の感情に支配されていることが明らかになっていきます。我々だってサルなのです。そう考えると、現在うまく社会の一員として生活している常人たちも多少の獣性を持っていることになるでしょう。野性が目覚めた主人公は我々の延長線上の存在にすぎません。

 

 

 

 

人間と動物という分類が曖昧になった現代は、人間を感情的な動物であると認め、感情を持たないロボットと区別する時代です。次は人間がAIに恋する映画『エクス・マキナ』から、「感情」で人間を定義づける行為について考えていきます。

 

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 オオカミに恋した激レアさんと同じくIT関係の仕事をしている主人公。実験と称して社長の邸宅に招待され、監禁されているAIのエヴァと出会います。

主人公とエヴァは接していくうちに恋に落ちたように見えますが、それはエヴァの企みでした。服装やカツラなど「人間のフリ」ができるセットを揃えたエヴァは社長を殺害。主人公を邸宅に閉じ込めたまま人間社会へと脱出します。

 恋愛と言っても主人公の片想いであり、エヴァの企みによって両思いのように“見えていた”という結末。ただ、その過程の中で本当にエヴァに恋愛感情がなかったかどうかは謎のままです。エヴァは監禁から開放されることを第一に優先していたかもしれませんが、それとは別で主人公のことは好きだった可能性もあります。そもそもAIに感情なんて一切ないと考えるならば、開放を求めたのも何もかも人為的な操作だったといえるかもしれません。

たとえ人間同士であっても意識して自覚できるのは自分の感情だけなので、ある対象がどんな感情を持っているか・そもそも感情があるかどうかを確かめる完全な方法など存在しません。そう考えると、AIと人間はどのように区別すればよいのでしょうか。また、エヴァは人間の衣服を手に入れることで肉体的な差をほぼ完璧に克服しています。見た目が人間と殆ど変わらないロボットを我々は人外と呼べるのでしょうか。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、「人間」という概念自体ある歴史的瞬間に賢い大人が発明しただけものであり、これが依拠する時代が変われば概念ごと消滅するべきであると主張しました。

 

 人間/非人間の分類はもう古めかしいものになっているのかもしれません。その時に残る分類は自分/自分以外のみとなり、『美女と野獣』の教訓も通用しなくなるのでしょう。

 

この文章を書いている私も、読んでいるあなたも、本当に人間だと言えるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スピッツ『ルナルナ』が受肉した漫画『オンノジ』

 

 スピッツの曲で何が1番好きか聞かれた時、あまりにベタな曲あげるのもなんか違う気がするなと思ってとりあえず言う曲ランキング4位くらいの「ルナルナ」。

 

ルナルナ

ルナルナ

  • provided courtesy of iTunes

 

 この歌を見事に具体化している漫画を発見しました(僕が勝手に思ってるだけです)。施川ユウキ先生の作品「オンノジ」です。

 

 

 

ここからは『ルナルナ』と『オンノジ』の類似性について考えていきます。単純に「似てるねえ……」というだけの話なので意味とか考察とかは期待しないでください。「だから何?」の風が吹いて飛ばされそうな軽い記事です。

 

 

***

 

 

「オンノジ」の世界には、7歳の少女ミヤコとフラミンゴに姿を変えた男子中学生オンノジしか存在していません。つまり、何らかの理由で2人(1人と1羽)以外の生物が絶滅してしまったのです。

ミヤコとオンノジが出会うまで、2人は長らく単独行動をしていました。

ミヤコは人がいないのをいいことにピンポンダッシュを連発したり線路で寝たり自由に過ごしています。一方オンノジは自分がフラミンゴになった理由を調べようとしたら「フラミンゴのヒザに見える部分は実はカカト」という雑学を見つけて驚いたりしていました。

この2人、状況の割に緊張感がほとんどありません。

ただそれは己の寂しさを紛らわすための演技でもあったのでしょう。

 2人はどうしたって隠しきれない孤独の悲しみを、「誰にも邪魔されずに自由に過ごせる」という’’力’’に変えて乗り越えていたのです。

 ミヤコとオンノジは、砂浜で偶然に出会います。

 世界には自分しかいないと思い込んでいたオンノジが戸惑っているうちに、ミヤコはどこかへ行ってしまいます。

 オンノジは砂浜に残されたすぐに消えてしまいそうな足跡からミヤコを追い、自分が見た人間が妄想ではないことを確かめに行きます。

 悪夢のような世界の中で、生身の人間だけが唯一の現実に感じられたのでしょう。

 

忘れられない小さな痛み 孤独の力で泳ぎきり
かすみの向こうに すぐに消えそうな白い花

スピッツ 『ルナルナ』より)

 

 ***

  

 

ただ、オンノジは足跡からミヤコを見つけ出すことはできませんでした。やはりミヤコはただの妄想だったのでしょうか。

 唯一の希望を失ったオンノジはまたふりだしに戻ってしまい、白い服の少女を探して彷徨を続けます。

 そして、彼は喫茶店で再びミヤコを発見します。

彼女は何故かコーラでシャンパンタワーを作っており、最終的にはそれをひっくり返して台無しにしていました。

 その一部始終を見ていたオンノジは、

 

なんて
アナーキーなんだ 

 

と呟きます。

 

思いつかれて最後はここで
何も知らない蜂になれる
瞳のアナーキー ねじれ出す時 君がいる

スピッツ 『ルナルナ』より)

 

*** 

 

 

こうして出会った2人は、異常な世界の中で変わらず緊張感のない楽しみを見出していきます。

無人の遊園地の散策。誰もいない交差点のど真ん中でゲリラライブ。それまで存在していた人類の残した少しおかしな張り紙にツッコミを入れたりもします。

 

オンノジはフラミンゴでありながら空の飛び方を知りません。

この世界において「飛べない」という事実は「飛躍的な移動ができない」という絶望を意味します。オンノジがフラミンゴで、ミヤコが人間である以上、彼らはこの狂いきった日常から脱することはできないのでしょう。

 作中では操縦士のいない飛行機や出来損ないのロケットなど、オンノジ以外にも「飛べない」アイテムが象徴的に登場します。恐らく「脱出不可な現状をどう生きるか」という命題が物語の大きなテーマなのだと考えられます。

 

 「君」を見つけた2人の物語は、とうとうサビに突入します。 

 彼らは決して絶望の影を見せません。 オンノジは原付の後ろにミヤコを乗せ、高速道路を占有して温泉旅行にだって行ってしまいます。誰もいない世界の中で、常に新しいときめきを探して飛び回っていたのでした。

 

2人で絡まって 夢からこぼれても
まだ飛べるよ
新しいときめきを丸ごと盗むまで ルナルナ

スピッツ 『ルナルナ』より)

 

***

 

 

1人と1羽のヘンテコな日常が続く中、今度はミヤコがオンノジの実在を疑い始めます。

 

 

オンノジと過ごした時間は

 1人で街をさまよってる毎日の中で

 一瞬の間に見た白昼夢だったのかも知れない

 

 

他者の存在を近くで確かに感じたかったミヤコは、オンノジにプロポーズします。 

夫婦になった2人は誰もいない路地にビアガーデンを作り宴を始めます。

何が現実で、何が夢で、なぜ彼らがここにいるのか。謎だらけで眠れなくなるような夜。夫婦は奇妙な世界をちゃかすかのように、盗んだ酒でどんちゃん騒ぎしていました。もちろん彼らは未成年ですがこの世界の善悪は2人にしかわかりません。

ミヤコは酒の力を借りて、月に向かい「神様のばーか」と叫びました。 

 

羊の夜をビールで洗う 冷たい壁にもたれてるよ
ちゃかしてるスプーキー*1 
みだらで甘い 悪の歌

スピッツ 『ルナルナ』より)

 

***

 

 

世界はわけのわからない状態を保ったまま何も変わりませんでした。

しかし、ミヤコはオンノジと過ごすこの世界に愛着を感じるようになっていました。

「世界にかけられた魔法が解けるかもしれない」という理由で、フラミンゴに変身する前のオンノジの写真を見ようともしませんでした。

元は悪夢のように感じていた町並みも、だんだんと輝かしく思えてきます。

非日常的な毎日は、まだたくさんの人が生活していた時代の退屈さを打ち破るものでした。

 

 

このまま止めないで ざわめき避けないで
ほら 眩しい
不思議な出来事は 君へと続いてる ルナルナ

スピッツ 『ルナルナ』より)

 

 ***

 

 

この不思議な日々がどのような結末を迎えるのかは明言しませんが、翼を持たない我々にも「まだ飛べるよ」と思わせてくれる作品だと思います。ここで挙げてないようなシュールなギャグがぎっしり詰まった漫画なのでオススメです。1巻で終わるので是非。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:気味の悪い、という意味

『花束みたいな恋をした』に冷徹なメスを入れる『愛するということ』

 

※『花束みたいな恋をした』の完全なるネタバレを含みます
 

1956年に エーリッヒ・フロムという哲学者によって書かれた『愛するということ』が、2020年に再翻訳を経てまた発売されています。

 

愛するということ

愛するということ

 

 

タイトルで勘違いされそうな本ですが、自己啓発に終止するような恋愛指南本では一切ありません。恋愛だけでなく母性愛や自己愛、神への愛などにもフォーカスが当てられ、*1徹底的な理詰めで「愛する」行為に迫る哲学書です。感覚的な話がほぼないからか愛の話なのに一切恥ずかしさを感じませんでした。文体が堅苦しい割には読みやすかったですが、ナンパ師とかが読んだら後悔すると思います。

良く言えば客観的で、悪く言えば血も涙もない。そんな本を読んで思い起こさずにはいられない映画があります。

 

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今年公開の話題作『花束みたいな恋をした』です。

自分語り誘発映画の金字塔として数多のインターネットユーザーにnoteを始めさせた傑作。ただしこの記事では主観的な意見を極力抑え、本の力を借りてできる限り冷徹に作品を解剖したいと思っています。登場人物を批判する表現がありますが全て「この本が掲げる善ではない」という意味に過ぎません。

 

 

 

映画の冒頭は2020年から始まります。お互い別のパートナーと別の席に座っている麦(男)と絹(女)ですが、イヤホンを例にとって同じ話をしています。

麦「分けちゃダメなんだって、恋愛は」
絹「恋愛は1人に1個ずつ」

 

 実は、『愛するということ』でもこれとほぼ同じ主張がなされています。

 

成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。 

愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。

 —『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
https://a.co/c9MozOf

 

絹と麦2人がフロム的な持論を展開した直後、物語は5年前にさかのぼります。

つまり『花束みたいな恋をした』は若い男女が5年間かけて自力で『愛するということ』で記された考えにたどり着く話であると捉えられます。映画の大半を占める回想シーンは(フロムの立場からすれば)盛大な「未成熟な愛」のお手本だと見て取れます。

 

 

『愛するということ』では、世論が愛について抱える間違った思い込み指摘するところから始まります。

その1つが「”愛する”行為自体に能力は不要である」という誤解です。「愛する」行為も絵をうまく描くなどと同様の技術を要する作業であるのに、現代人はその習練を完全にサボっているようです。この誤解のせいで人々は「愛される」か「愛する対象を見つける」ための努力しかしなくなっていると説かれています。

 

映画の序盤、麦と絹も「愛する対象を見つけた」瞬間的な快楽に溺れていたのではないでしょうか。偶然同じ日に終電を逃した2人が偶然同じ芸人の単独ライブに行く予定で、偶然それをすっぽかしていた。確かに珍しいシンクロです。喜ばしい気持ちになるのも無理はないと思います。ただ、その喜びはそれまでの2人がいかに孤独だったかを示すものでしかありません。

 

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さらに展開されるのは映画最大の特徴である固有名詞の応酬。2人は自分たちが面白がっているモノでつながろうとしますが、互いを面白がろうとはしません。実はフロムはこのような現象にも警鐘を鳴らしていました。先進国の中で”平等”を実現しようとする動きが進むと、急速に大衆が没個性化していきます。みんなが同じように学校に通って、同じように就活できる社会。もちろん素晴らしいことですが、人と人との区別がつきにくくなった共同体で「愛すること」の習練を怠るとどうなるでしょうか?答えは映画で示されます。人間の判断要素が「人以外」の部分になるのです。麦と絹が互いを面白がらないのは当然で、互いの愛し方を知らなかったからです。彼らはサブカル知識の優劣で人を判断していましたが、現実では学歴や年収が人間のスコアに直結する場合も多いでしょう。

 

フロムは「愛」の中でも特に「恋愛」が持つ排他性について懐疑的です。例えば恋愛においては「パートナー以外の人間を誰も愛さないこと」が愛の強さの証明になりがちです。しかし、本当の愛はその対象を通して世界の全てや自分を愛する行為であると主張します。*2これはもちろん浮気の容認とか低レベルな話ではなく人類愛的な意味でしょう。押井守を知らない人を見下す、ワンオク好きを冷笑する等の行為を通して互いの特別さを確認しあっていた麦と絹は、愚直に恋愛(笑)を実行していたのです。フロムはこのような態度を「孤立から脱したようで、世界から2人が孤立しただけ」と評しています。駅から徒歩30分の誰も触れない2人だけの国は、2倍になっただけの利己主義によって支配されていたのでした。

 

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2020年の麦がダメなこととした”恋愛を分ける”行為は、フロムが指すところの共棲的結合にあたります。ざっくり言えば他人を自分の一部にしようとする関係を指す言葉です。

ひたすら「共通の趣味」にこだわっていた麦と絹も「2人で1つ」になろうとしていたと言えます。麦が就職を経てパズドラ以外の興味を失おうが、この欲求は「現状維持」の名の下に引き継がれました。

連日の激務で消耗する麦にイベント会社への転職を知らせる絹。「ポップカルチャーが好きだからそれ周辺の会社に移った」。ただそれだけの報告なのに麦は激昂します。

 

仕事は遊びじゃないよ

好きなこと活かせるとか、そういうのは人生ナメてると思っちゃう


こうして散々絹の選択を批判したかと思えば、

じゃあ結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、家にいなよ

 

と斬新なプロポーズをします。

 

フロムは共棲的結合を2種類に分類しています。

・相手を支配しようとする(サディズム
・相手に保護してもらおうとする(マゾヒズム

麦は絹を家に閉じ込めて自らを拡張しようとしたのでした。

 

 

 

本の内容に従えば、映画内の2人は愛する技術を身に着けていなかったがために破綻します。では、具体的に何が足りていればよかったのでしょうか?

 

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。

人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。

—『愛するということ』エーリッヒ・フロム著
https://a.co/5MdvBgi

 

フロムは、愛する行為はギャンブル性があって恐ろしいことだと記しています。だからこそ、信じる力の重要性を謳います。相手を信じるのが怖いからといって、サブカルに頼って偽りの団結を演じるのは間違っている。自分たち以外の人間を見下すのもおかしい。相手を自分の支配下に置こうなどもってのほかなのです。また、相手を信じるには自分も強い信念を持っていなければならないとも書かれています。2人に足りなかったものは、不確かなものに全身を委ねるための信念だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

ここまで映画と本の共通項が多いと、絹も麦もあんなに本好きならこの本読んどきゃよかったのにと思えてきます。

が、そんな単純なものでもないでしょう。

その証拠は『愛するということ』の出版から50年経っても『花束みたいな恋をした』に多くの人が共感してしまっている事実です。進歩ゼロ。もう人間は失敗を通してしか愛を学べないのです。本を読んだりして賢くなった気になっても無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄なのです。

 

長谷川白紙の話をしていたカップルのごとく、これから先もずっと人間は過ちを繰り返していくのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:宗教周りの話は馴染みがなさすぎて正直よくわかりませんでした。

*2:「本当の愛」を説明するときに「愛」って言葉使うなよとは僕も思いましたが、本文の表現に従いました。

『パラサイト』とブルーハーツが映す"パーティー"

 

※映画『パラサイト』の完全なるネタバレを含みます

 

 『情熱の薔薇』や『TRAIN-TRAIN』で有名なブルーハーツ。彼らのシングル曲の中で最も売れていない曲が『パーティー』です。

 

 

 

僕のSOSが 君に届かない

交差点は今 スクランブルの

暗号文で埋め尽くされた

 

タイトルからは想像もできない暗い歌い出し。その後すぐサビに入ると

パーティー パーティー にぎやかなパーティー

 
引用するのも恥ずかしくなるレベルのシンプルすぎる歌詞が続きます。バックでは「良い方のマーシー」でおなじみ真島昌利氏が「パーパパパパパ♪」と楽しげに歌うコーラスが繰り返されます。

一瞬さっきの不穏さはどこ行った?と混乱状態に陥りますが、きっとこのサビの部分は盛大な皮肉なのでしょう。偉い奴らがバカみたいなことでどんちゃん騒ぎしているせいで、声なき者の声はどこにも届かないんだぞ。そんなメッセージをあえてバカみたいな言葉に乗せて伝えているのではないでしょうか。確かに現代人はあまりの忙しさに小さな声に耳を傾けない傾向もあります。きっとこの記事も太字の部分しか読まれてないことでしょう。

小さい声を覆い隠すノイズとしてパーティーが用いられる作品といえば、2020年度アカデミー作品賞を受賞した『パラサイト』が思い起こされます。

 

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半地下の物件に住む貧乏な家族が家庭教師なり家政婦なりで金持ち家族の家へ侵入。身分を偽ることで”寄生”を計画するこの映画。作品内では、物語が動く瞬間に必ずパーティーと呼べるシーンが登場します。

1回目は半地下家族による宴。
宿主がキャンプへ出かけているのを良いことに、金持ち家族への完全なる寄生を祝います。人んちの酒で豪遊する一同でしたが、このシーンが大きなサプライズの前触れとなっています。和やかな雰囲気を切り裂くインターホン。ついにあの”全地下夫妻”の存在が明らかにされます。さらに大雨によって金持ち家族の帰宅が早まり、豪邸は一瞬にしてパニックハウスへ変貌を遂げます。

弱いものがまた夕暮れさらに弱いものを叩く争いの末、全地下夫妻は再び地下に監禁されます。乱闘と部屋の片付けとジャージャー麺の調理を同時に済ます大荒業を達成した半地下家族。家政婦の母を除く全員が机の下に隠れてギリギリ一件落着となりました。

乱闘の最中階段から蹴落とされ、全地下の妻は死亡。夫は地下にあった電灯のスイッチからモールス信号で”SOS”のサインを送ります。


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ボーイスカウト経験者の金持ち末っ子ダソン君のみこのメッセージに気づきますが、”一線を超える”ことを恐れ無視します。

 

2回目はそんなダソン君の誕生日パーティー

 

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広大な庭園。オペラの旋律。参加者として選ばれた富裕層たちの談笑。その裏でダソン君へのサプライズ企画が進行中でしたが、ここでもそんな茶番どうでもよくなるレベルのビッグサプライズが巻き起こります。妻を亡くした全地下夫が復讐のため地上に這い上がってきたのです。とはいえ、富豪たちはパーティーに夢中で男の存在には一切気づきません。男はパーティー会場のど真ん中で半地下家族の姉を殺害します。

悲鳴にあふれ、パステルカラーに血の色が混じり、全ての者が同じ立ち位置に立つ。真の意味で”にぎやかなパーティー”の完成です。

 

 

パーティーは見たくない現実から逃避して愉悦に浸る行為です。『パラサイト』においてのパーティーも、登場人物が何かを見失っている心理を映し出していたのではないでしょうか?その後に待ち受ける衝撃的な展開は、登場人物・観客の視線を無理やり目を背けていた対象へ誘導します。

全地下夫妻の存在は映画の中盤まで観客にもその存在が隠されていました。しかし、最初から彼らの放つメッセージは「伏線」として現れています。ここらへんは数多ある考察サイトが分析してくれているはずでしょう。重要なのは、同じ家に住む同じ人間の存在が誰の目から見ても”伏線”にしかならなかったことだと思います

様々なノイズが入り乱れるパーティーの中でも、自分に関連性の高いワードが発せられた時や好意を抱く人の発言は無意識に聞き取れてしまう現象があります。「カクテルパーティー効果」と呼ばれているそうです。全地下の存在は、たとえ映画という名のパーティーに夢中でも、格差社会に底がない事実を意識していれば気付けるトリックだったのではないでしょうか。

 

『パーティー』の歌詞には次のような一節があります。

 

本当は大きな声で 聞いてほしいのに

ため息だとか 舌打ちだとか

独り言の中に隠してる

 
「小さな声がかき消され」ていたのは半地下家族についても同様です。低層地帯の住民が深刻な豪雨被害に遭ったにもかかわらず、高台にある高級住宅街は全くのノーダメージ。優雅に誕生日パーティーの用意をする金持ち家族にいらだちを覚えつつ、半地下家族は引きつった笑顔で偽りの身分を演じ続けます。参加者の談笑もダソン君へのサプライズも結局は金持ちの内輪ノリにすぎませんでした。

「パーティーを楽しめるのはカースト上位の者のみ」。学生時代誰もが突きつけられる現実ですが、これが資本主義社会の縮図でもあります。もちろん内輪に入ることができればえも言われぬ喜びが待ち受けているのでしょう。半地下家族が1度目のパーティーを楽しめたのは、自分たちより豊かな金持ち家族が不在だったからです。その場においては自分たちがトップであり、その地位を守るため夫婦を地下室に監禁したのです。

 

 

 

昨今はパーティーができない時代が続いています。おかげでインドア派には意外と居心地のいい日々が続いています。しかし、パーティーが社会の縮図であったなら社会はパーティーの拡大図であるはずです。ポン・ジュノ監督と甲本ヒロト氏が編み出したトートロジーに則れば、今の生活を優雅に楽しめている人々は内輪の存在である可能性が高いのです。外側に意識を向ければ、聞こえもしなかった声が聞こえてくるかもしれません。

 

売り上げという意味で『パーティー』という名曲は大衆に届きませんでした。1993年の曲を2021年に宣伝してどうすんだと思われるかもしれませんが、この小さな声がどこかに届いていることを願います。